イラストレーション・キャラクターデザイン Sue-MKU
果てしなく白い極光の下で・・・
カレリア1944 冬 〜前編〜
「――……大隊本部へ。第二中隊指揮車〈ピリカ〉より大隊本部へ……」
ヘッドホンからは空咳のような空電の音しか帰ってこなかった。
薄暗い鋼鉄の筺の中で、マーリア・コスキネン大尉は懐中電灯の明かりを頼りに
Fu16無線機の操作をし、喉のマイクに震える手をあてる。その手は分厚い手袋
の上からでも、刺すような寒さと、そして緊張に震えているのが見てわかる。
「――……大隊本部………… ……だめ、通じないわ。アンテナがやられたのかも」
マーリアの声に、鋼鉄の筺の中――V号突撃砲の戦闘室の中にあった瞳が、まだ
幼さの残る少女たちの瞳が不安げに動き、さまよった。
「大尉、後退しましょうよ…… ここは風通しが悪すぎますって、危険です」
操縦席から、ナイナ操縦手が言った。彼女の顔はみんなには見えないが、その顔が
寒さと疲労、そして恐怖で泣き出しそうになっているのはその声に現れていた。
そしてナイナの声には誰も――応えなかった。
車体後部の、エンジンのアイドリング音だけが無機質に響き、氷よりも冷たく凍て
ついた鋼鉄の車体を小刻みに揺らしていた。指揮官のマーリアは、車長席からキュー
ポラのペリスコープに填められた防弾ガラス越しに、外の世界に目を向ける。
そこは――凍てついた白と、砲弾に引き裂かれた大地の黒が折り重なった死の大地。
そこは――
1944年――膠着したフィンランド軍とロシア軍の戦線の片隅――
ヴォルサルミから侵攻してくるロシア軍の戦車と歩兵、そして砲弾の嵐を、際どい
戦線でかろうじて支えきっているフィンランド軍第V軍団所属のニーン戦闘団。その
突撃砲部隊が守る、名もない小さな小道と、砲弾で鋤き返された森林の荒野――
そこは、第二中隊のV号突撃砲PS223.1〈ピリカ〉とその数少ない僚車が、
そして猟兵たちが守る、ぜい弱なフィンランド軍の戦線のひとつだった。
『――〈ハンナ〉より〈ピリカ〉へ…… こちらは街道まで下がれた。そっちは?』
中隊連絡用の無線機Fu16よりも出力の低い、車間連絡用無線機Fu15のほう
は、ぎりぎりで僚車〈ハンナ〉と〈ピリカ〉のあいだに無線の綱を繋いでくれていた。
このところ、漆黒の天空から消えることなくはためいている、あの白い極光のせい
だろうか、まだ数キロしか離れていないはずの〈ハンナ〉との無線にもひどい空電が
のって、ときおり通話が不能になる。
「――こちら〈ピリカ〉。カレン、そのまま後退して。連絡が取れたら、すぐに大隊
に通信を入れて。こっちの中隊無線機は壊れたみたい、使えないの」
マーリアの声に、空電まみれの僚車からの通信が――V号突撃砲〈ハンナ〉の車長
カレン・コスケライネン中尉からの声が帰ってくる。
『――……ああ、わかった。すぐに交代の連中を送らせる。 ……悪い、こっちがド
ジって、あんたたちだけにさせちまってさ」
「――大丈夫。あと少しでまた真っ暗になるわ。そうしたら敵も味方も動けない」
〈ハンナ〉は、主砲の閉鎖器が酷い焼け付きを起こしてしまい、後退していってい
た。カレン中尉は最初、砲が使えなくてもそこに留まる、とマーリアの後退命令に従
わなかったが――敵戦車のもららしきエンジン音を聞きつけた歩兵たちの報告を受け、
しぶしぶとPS223.2〈ハンナ〉は後退していた。
(……砲弾を〈ハンナ〉からもらえればよかったのだけど……)
マーリアは、真っ暗なペリスコープの外の世界に眼を細める。そこには、まだ日中
の時間だというのに夜のような暗さの北欧の冬が――このところ、上空で舞い続けて
いる銀河のような白い極光、そのかすかな残照に浮かび上がる荒野が――あった。
戦争の前は、森を抜ける小さな小道という、のどかな光景だったに違いない。
だがいまは、砲弾に鋤き返され、戦車と歩兵に踏み荒らされて、気味の悪い瘡蓋の
ようになった湿地が広がっていた。そこを凍てついた雪が白く覆い隠し、ところどこ
ろに、どす黒い砲弾の穴がまばらに散っていた。
――寒い。冷え切り、そして人間の呼吸と機械の排熱でよどみ濁った戦闘室の空気
の中で、マーリアはひび割れそうな唇を舐めた。
凍てつき、全てが死に絶えたようなこの世界だったが――〈ピリカ〉が車体を止め、
陣取っているこの場所は、ひどく危険な場所だった。小道の曲がり角と乱杭のような
森の残滓が残る荒れ地を見渡せるその場所は、ここを守るフィンランド軍部隊にとっ
ては絶対に渡すことの出来ない場所だ。〈ピリカ〉は、窪地と倒木、そして周囲の塹
壕と蛸壷にもぐった猟兵たちによって、敵ロシア軍からは守られていたが――
すぐ近く、おそらく100メートルも離れていない先には、ロシア兵たちが同じく
地形に潜って、〈ピリカ〉の位置を特定しようと目を血走らせているはずだった。
この状況では、歩兵たちは塹壕から首を出すこともできない――少しでも動くもの
が地表に出たら、即座に両軍の狙撃兵がそのうかつな存在を銃弾で射抜いてしまうだ
ろう。この状況では、背の低い突撃砲といえども、〈ピリカ〉のキューポラから得ら
れる視界は、マーリアの視界は、神の目のそれに等しい。もし〈ピリカ〉が下がって
しまったら、この場所の兵士たちは敵の動きを、危険な戦車の進撃を、最悪の時にな
るまで気づけない可能性があった。そしてそれは、敵のロシア軍にとっても同じこと
だった。ここに陣取る忌まわしい突撃砲さえ始末できれば、このぜい弱な戦線を突破
することも容易になるはずだ。そしてロシア軍は、それを狙っていた。
――寒い。暗い戦闘室の中で、吐く息だけが白い。本来なら、明るいシルクか花弁
のような色つやのはずの、マーリアの肌も、そして乗員の少女たちの顔も、この突撃
砲の戦闘室の中では、ひどくくすんで、何かの革のように見えていた。
(……みんな、ここから二日も出ていないものね……)
自分の顔も、どんなひどいことになっているだろう――戦争の前だったら、こんな
ことは想像すら出来なかった。廃油と煤に、顔も髪も汚れたままの女性戦車兵たちは、
マーリアは――気を抜くと気絶するような眠りに落ちそうな極寒の中、身体を小刻み
に動かして、寒さと眠気に、空腹と渇きに、そして身体の痒みに耐える。
だが…… マーリアは外の世界に悲しそうな眼を細める。突撃砲の内部がこれほど
冷え切っているのなら、外の世界は――塹壕や蛸壷の中、凍てつく雪と泥の中で耐え
ている歩兵や猟兵たちはどんな超人なのだろう、とマーリアは思い、口を引き結ぶ。
この暗闇の中のどこかに、この戦線を、そして忍び寄る敵兵から〈ピリカ〉を守っ
てくれている猟兵部隊と、その指揮官のイングリドがいるはずだった。
マーリアは、その戦友のことを思い出し――
ごつん、と重苦しい音が車内に響いた。装填手のブレンダ上等兵が、眠気で気を失
ないかけて頭を、鉄兜をどこかにぶつけた音だった。突撃砲に乗るには背が高すぎる
ブレンダは、大きな鉄兜をかぶって鋼鉄の筺の中で頭を守っている。
「……す、すみません」
ばつが悪そうに言ったブレンダに、マーリアは小さな笑みを見せ、言った。
「もう少しで後退できるわ。 ……残りの砲弾を報告して」
マーリアは、ブレンダの意識をハッキリさせるため、つい先刻と同じ報告をさせる。
「はい。えっと―― ……やばいです。徹甲弾が二発、榴弾が五発です」
車体中の格納庫から、手元の砲弾ラックに残りの砲弾をかきあつめてきたブレンダ
は、鈍い黄銅色をした砲弾をミトンの手袋でみがく。
「そう。わかったわ。この暗がりだから、敵さんは対戦車砲をすぐ近くまで押してき
ているかもしれない。榴弾を装填する準備をしておいて」
「了解――」
ごそごそとブレンダが動き、ひどく大きく見える75ミリ砲弾を抱きかかえる。
(……砲弾が少ない……)
歩兵を追い散らすだけならまだしも、対戦車砲や、敵戦車が出てきたらまずいこと
になる。後退するカレンの〈ハンナ〉から砲弾をもらおうにも、狙撃手だらけのここ
では、ハッチから頭を出すことすら出来なかった。
マーリアは、喉あてマイクで車内通話を使い、操縦手のナイナ伍長を呼び出した。
「もう少しの辛抱よ。カレンたちが交代を呼んでくれたはずだから」
「は、はい。で、でも……」
その時――ずん!ずん!と車体が揺れ、鈍い爆音が少女たちの頸をすくめさせた。
「わ、わあ……! ど、どこ……?」
「静かに――探りの砲撃よ。動かないほうがいいわ」
マーリアの声に、ナイナの泣きそうな声が遮られる。ロシア軍は、ときおり迫撃砲
で〈ピリカ〉のいるあたりをめくら撃ちにしていた。この砲撃で突撃砲を動かし、あ
ぶり出そうとしているのだ。だが――この散発的な砲撃は、未だ、ロシア軍は彼女た
ち〈ピリカ〉の正確な位置を掴んでいないという、良い報せでもあった。
数度、迫撃砲の斉射が続き――そして、急に静かになる。
ばらばらと、至近弾が巻き上げた土くれが〈ピリカ〉の上に降ってきた。その音が
消えると、再び戦闘室の中は、エンジン音と少女たちのかすかな吐息だけが満ちる、
凍てついた静けさに包まれる。
「……しまった――照準器が……」
その時初めて、それまで砲の部品かなにかのように砲手席で身じろぎもせずにいた
少女が、砲手のナディーン軍曹が低く、少しあわてたような声を出した。
「? どうしたの、ナディーン」
マーリアの声に、ナディーンが首を傾げて背後の車長を見上げた。
「レンズに土くれがかかったみたいです。照準器を引き入れていいですか?」
飼い犬を心配するかのような、か細い少女の声に、マーリアはうなずいて答える。
「ええ、そのあいだは私が外を見ているわ。大丈夫」
ナディーンは小さくうなずくと、照準器を車内に引き入れるために席を――
――立てなかった。
ぐわん!! と世界がひっくり返ったような衝撃が少女たちを襲った。
「きゃああああああ!!」
誰かの悲鳴が戦闘室の中で響き、そしてすぐに別の衝撃がそれをかき消した。
ずずん!! ――車体の右側で凍った大地が裂け、火を噴いていた。
「ほ、砲撃……!?」
「迫撃、砲の至近弾です……!! 後退しましょう、大尉!!」
「く、くそっ! やられたの!? 誰か、誰か……!?」
ブレンダが叫び声は、二発目の砲撃でかき消される。突撃砲の車体が重苦しく揺
れて、どこかの棚に入っていた工具か手榴弾かが飛び跳ねてひどい音を立てた。
「ひ!! わあああ!!」
パニックに陥りかけた戦闘室の中で、マーリアの叱咤が鞭のように走った。
「静かに!! 直撃じゃない、落ち着いて!!」
もう少しで、操縦桿をバックに入れ、ギアを後退にしかけていたナイナの腕が止
まり、身体のどこかを嫌と言うほどぶつけたらしいブレンダが涙目の顔をしかめて
鉄兜を脱ぎ、ヘッドホンを頭につける。
「……いまのはラッチュ・バム! 対戦車砲です、大尉! どこかに……!!」
操縦席に着いたナディーンが、照準装置に右目を押しつけたまま歯を食いしばる。
その時、三発目の砲撃が〈ピリカ〉を襲った。
「う、うわっ!?」
砲弾は装填手ハッチのすぐ外をかすめて飛び去り、背後の土手に突き刺さって大
地を裂き揺るがした。
マーリアは、胃袋を吐き出してしまいそうな焦燥感と緊張の中、ペリスコープに
目を見開く。本当は、ハッチを開けて外を見、敵の砲を探すべきだったが――おそ
らくそれは、敵の狙撃兵に的をひとつ差し出すだけで終わるだろう。
「くっ……! ど、どこ……!? いつのまに……」
真っ白な荒い息を吐くマーリアの口から、呻くような声が漏れた。ペリスコープ
の外、分厚い防弾ガラスの向こうには、砲撃で巻き上げられた雪片が煙のようにな
ってただでさえ悪い視界を遮っていた。
移動すべきか、それとも――マーリアが一瞬ためらったとき、
「……い、いたあ! 11時方向、斜めになった倒木の陰です!!」
全員のヘッドホンに、そして操縦席から、悲鳴じみたナイナの声が響いた。
それと同時に、四発目の砲弾が〈ピリカ〉を襲った。砲弾は車体の履帯を守ってい
た土手の凍土に命中し、火山のように泥土を吹き飛ばした。
「くっ、うう……!! ――いた! 発砲炎! ナイナ、よくやったわ!」
操縦席の装甲シャッターの隙間から外を見ていたナイナが最初に対戦車砲を見つ
けていた。歩兵からの警告がなかったということは、ロシア兵はかなり綿密に、慎
重にこの砲を押し出して陣地を作り、攻撃を計画していたのだ。
(……さっきの迫撃砲は目くらましだったのか……)
四発目の砲火をペリスコープから視認したマーリアの耳に、ナイナの甲高い悲鳴
が飛び込んできた。
「大尉、後退しましょう! 照準されてます! はやく!!」
「まって、だめ!! ここから下がったら他の敵に側面を晒すわ!」
「で、でも……!! やられちゃいます、はやく!!」
マーリアは血の出るほど強く、唇を噛んで――耐えて、考えた。
おそらく、敵はこちらの動きを読んで――側面にも砲を持ってきているだろう。
この場を下がれば、地形の加護を失った〈ピリカ〉の脇腹は丸裸になる。
一瞬後、マーリアは決断を下して、声を張り上げた。
「ナディーン! 照準器は!?」
その声に、照準装置に顔を押しつけたままでナディーンが叫んだ。
「……駄目です、見えない……! 位置を教えてください! 自分は、街道の真ん
中を照準してます!!」
ナディーンの声に、マーリアはペリスコープを覗き、荒い息を吐きながら答えた。
「左に30メートル、照準を動かして! 距離は300、いえ、280!」
そこに、五発目の砲弾が飛来した。対戦車砲の徹甲弾は、車体右にあった防弾用の
丸太に当たって跳弾し、突撃砲の車体を衝かれる鐘の中のような衝撃で揺らした。
「きゃあああ! や、やられたあ!!」
ナイナの悲鳴が全員のヘッドホンから響き、耳に刺さった。
「大丈夫!! ナイナ! 後進の用意を! ブレンダ! 榴弾装填!! 信管は着発、
いそいで!!」
「は、はいっ!!」
ブレンダはよろめきながら砲を操作し、がこん!と大きな音を立てて閉鎖器を開く。
そこに、一抱えもあるような大きな砲弾をブレンダが押し込み、装填する。
「装填完了!!」
そのあいだにも、迫撃砲の着弾する爆音と、歩兵たちの銃撃が〈ピリカ〉を包みこ
んでいた。敵の攻撃が、この荒れ地で始まっていた。
「照準しました! 砲撃します!!」
「撃って! ナディーン……!!」
マーリアが叫ぶのと、ナディーンが激発レバーを握り締めて〈ピリカ〉の75ミリ
砲を撃ちはなったのが同じ――そして対戦車砲の六発目砲弾がキューポラのすぐ上を
かすめて飛び去ってゆくのと同じだった。
ガン! ――突撃砲が巨大な金槌で打たれたような、短い衝撃。75ミリ戦車砲の
砲撃が〈ピリカ〉を揺らし、砲口のマズルブレーキから噴き出した砲煙と炎の噴流は
全ての視界を遮って膨れあがった。ひどい音を立てて閉鎖器から空薬莢がはじき出さ
れる。
一瞬遅れて、今までとは違う遠い爆音が〈ピリカ〉乗員の耳に響いた。ペリスコー
プから覗くマーリアの目に、暗闇と白い砲煙の向こうで、ピカッと赤黒い爆炎が巻き
上がって、消えたのが映る。
(……やっぱり当たらなかった……!!)
「大尉! 後退しましょう!! はやく!!」
「まだ! まだ駄目……!!」
歯がみしたマーリアの耳に、静かで、そして不思議な自信に満ちた声が響いた。
「……やった! いまので、レンズの前のごみが取れました! 見える!!」
そのナディーンの声が脳裏に流れ込んで、一瞬後――マーリアは右側にいるブレン
ダの肩を掴み、大声で命じた。
「榴弾装填!! ナディーン、照準して!!」
「了解!」
「おねがい、一発で仕留めて! 向こうも今度は――来るわ……!!」
この距離だと、ロシア軍の76.2ミリ対戦車砲〈ラッチュ・バム〉はV号突撃砲
の装甲板など容易く打ち抜いてしまう。もしこれが背の低い突撃砲でなく普通の戦車
だったなら、とっくに彼女たちは殺されてしまっていただろう。
マーリアの言葉が終わると同時に、ブレンダは二発目の榴弾を装填し、ナディーン
の背中を叩いていた。
「頼むよ!!」
ナディーンは無言で照準器に強く右目を押し当てたまま――砲の操作ハンドルを回
し、そして微妙な操作で戻し――ハンドルの激発レバーに手指をかけた。
照準器の中は、一発目の砲撃が巻き上げた雪片と砲煙でほとんど視界が遮られてい
たが――ナディーンの目は、その向こうに在るものを、先刻まで目に焼き付けておい
た光景の中にある、わずかに角張った異物を見つけ出していた。
ナイナの悲痛な叫びの通り、倒木の陰に陣地が掘られ、そこに対戦車砲が隠されて
〈ピリカ〉を照準していた。黒い小鬼のように見える、砲兵たちの小さな影がいくつ
も動いて、それが叫ぶ口の中の赤さがナディーンの目に映っていた。
「照準よし!! 発射!!」
ナディーンが短く言い、激発レバーを引いた。
瞬間、〈ピリカ〉の車体と戦闘室は鋭い衝撃と轟音に震え、揺らいだ。
(……当たって……!!)
ペリスコープの向こうに目を見開いていたマーリアは、砲撃の爆炎と衝撃に目をし
かめる。閃光で霞んだ彼女の瞳に、次の瞬間――
ズム!! ――遠い爆音と衝撃が走り、小さな赤黒い炎が照準器とペリスコープの
中で膨れあがった。敵対戦車砲のあった場所は、その爆炎に包まれ――
「……やった!!」
マーリアの唇が震え、肺の中で熱く濁っていた息を吐きだした。
彼女とナディーンの視界の中で、赤黒い爆炎が消えるのと同時に、吹き飛ばされた
土くれや木片がバラバラと飛び散るのが映った。
ナディーンの放った砲弾は――凍土に穿たれた陣地に守られていた対戦車砲を、そ
の防壁になっていた倒木に当てて跳弾ぎりぎりで爆発させることによって、一発で破
壊し、沈黙させていた。
(……さすが、ニーン戦闘団の魔弾の射手…………)
マーリアはがさがさに乾いた口と喉で息を吐き、眼下に見える砲手席で身じろぎも
せずにいるナディーンの後ろ髪を見つめた。
フィンランド軍には、戦車隊には数多くの射撃の名手がいたが、このナディーンは
特別だった――もし、彼女が居なかったら…… そう考えただけで背筋が寒くなるほ
ど何度も、〈ピリカ〉と乗員たち、そして僚車や歩兵たちは、ナディーンの放つ魔弾
に命を救われていた。
「……ざまあみろ!」
どん、と天板を殴りながらブレンダが歓声を上げた。マーリアは無理やり湧かせた
唾を飲み込み、ペリスコープの向こうを見――命令を下す。
「まだ安心しちゃ駄目。きっと敵はまだいるわ! 気をつけて――」
マーリアの言葉に、戦闘室の中の少女たちが背筋を強ばらせた。
「――ナイナ、後退して。このまま五メートル下げたら、一旦停止。私の指示を待っ
て、それから七時方向に後退するわ。いい?」
「は、はい……!」
ナイナが答え、数呼吸の後――彼女たちの背後で12気筒マイバッハエンジンがア
イドリングから目覚めて咆哮を上げた。少しして、戦闘室の中に鋼鉄のギアがかみ合
い削れる、鼓膜に刺さるような音が響いて――
がくん、と揺れて、〈ピリカ〉はゆっくりと後退してゆく。
(……まだ、来る…… ――きっと……)
執拗で用意周到なロシア軍が、これで攻撃を終わらせるはずがなかった。
目の前の対戦車砲が〈ピリカ〉の位置を特定し照準していたと言うことは、必ず別
の砲か戦車が、ピリカの背後や側面に回っているはずだった。
凍てついた大地と雪原を踏みしめ、砕きながら後退してゆく24トンの鋼鉄の筺、
〈ピリカ〉内部で、マーリアは後方のペリスコープに目を向けながら――
ぞわっと、首筋に厭な物でも押し当てられたかのような、気味の悪い「何か」を感
じていた。
それは、殺気とも、予兆とも言える――歴戦の突撃砲指揮官のマーリアが持ってい
る戦場の経験がささやく、確信だった。
「――ブレンダ、徹甲弾の装填準備を」
マーリアの低い声に、ブレンダが頷き、ナイナは視野のない後進操縦を続けながら
徹甲弾という言葉に、ナイフでも突きつけられたように頸をすくめた。
そしてナディーンは――分厚い手袋の奥で凍えている指を、ゆっくり動かし血をめ
ぐらせる。
〈ピリカ〉は低い土手の陰から後進で抜け出し、がくんと震え、停止した。
二話目につづく
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