イラストレーション・キャラクターデザイン Sue-MKU
果てしなく白い極光の下で・・・
カレリア1944 冬 〜後編〜
「……右旋回、二時に向けて――いつでも後進できるようにしておいて」
停止した〈ピリカ〉の中で、マーリアの声が全員のヘッドホンの中に響いた。
「了解……」
突撃砲の車体が、重苦しいギアの音とエンジンの音を轟かせながら、回り、止まる。
車長のマーリアはキューポラの防弾ガラスを、射手のナディーンは照準器を、操縦
席のナイナは装甲シャッターの隙間から、暗闇の世界を、見る。
先刻までの位置には、車体のぜい弱な部分を、二つの履帯と、両側面を守ってくれ
ていた地形の加護があった。だが、後退したここでは――車体の正面と右側面は、何
もない空虚な荒れ地の闇に晒されてしまっていた。
(……猟兵と…… イングリドたちと無線が通じれば……)
〈ピリカ〉の目、そして守護者となってくれている猟兵部隊の持っていた唯一の無
線機は、先日、無線手とともに迫撃砲で砕け散ってしまっていた。マーリアは、厭な
男たちの視線に晒されてしまっているときのような、気味の悪い右側の荒れ地に目を
向ける。
「戦車が来るとしたら、こっちのはず――」
マーリアが小さく言った。その声に、ブレンダが何かを言おうとした、その時、
「っ!! 対戦車砲! 11時、土手の向こう!! そこまで砲が向かない!!」
ナディーンが照準装置に目を押し当てたまま、叫んだ。それと同時に、外を見てい
たマーリアとナイナの目に、ぞっとするほど近くの砲火が映り込み、刺し――
ぎゅん!! 戦闘室の上を対戦車砲弾が飛びすぎていった音が、少女たちの頸を
竦ませた。マーリアは口から胃袋と心臓を吐いてしまいそうな恐怖と緊張に目を見開
き、息を飲んだ。
「しまった、あんなところに……!! ブレンダ、榴弾装填!!」
今、〈ピリカ〉を照準している対戦車砲は、むき出しの荒れ地にそのまま駐座して
こちらを狙っていた。闇の中でそこだけ白く浮かび上がって見える、ロシア兵たちの
姿が対戦車砲の周囲で動いていた。あの連中は、〈ピリカ〉が最初の対戦車砲に釘付
けになっているあいだに、ここまで砲を動かしてきたのだろう。
マーリアは、距離をナディーンに伝えようとした口を――閉じ、そしてまた開く。
「ナイナ、左旋回、11時! あの砲は45ミリ砲よ、ナディーン、落ち着いて――」
砲の大きさで、距離を見誤るところだった。
「距離、100! ブレンダ、急いで!!」
「は、はい!!」
敵の対戦車砲が火を噴き、〈ピリカ〉の側面の凍土を削って吹き上げる。
〈ピリカ〉の車体が、エンジンの咆哮とトランスミッションの悲鳴にあわせて、ぐ
らり揺れて旋回する。それが止まったとき、徹甲弾を棚に戻したブレンダが、榴弾を
砲の閉鎖器に押し込んでいた。
「装填よし!!」
その言葉に、ナディーンは至近距離の敵対戦車砲を照準器に捕らえ、直撃させるべ
く照準の△の頂点で、砲の車輪を狙う。ナディーンが激発レバーに手をそえた。
ぐわあああん!! ――突然の衝撃と轟音に、〈ピリカ〉の中の少女たちは一瞬、
全ての知覚を奪われて身体中を叩きのめされた。
「ひいっ!!」
「わああああ!!」
ブレンダが砲弾ラックに身体を叩きつけられ、倒れた彼女の上に車内にしまわれて
いたMG34機関銃がぶち当たってひどい音を立てた。
(な…… しまった、被弾……!?)
衝撃でくらむ目を無理に開き、マーリアは対戦車砲をにらみ付ける。
「だ…… 大丈夫、跳ね返した……! ナディーン、落ち着いて、早く……!」
おそらく敵の砲弾は、〈ピリカ〉の車体正面に付けられた増加装甲に当たって弾き
返されたのだろう。もしそれが、履帯や砲塔上部に当たっていたら、もっと独特の、
思い出したくもない嫌な衝撃が車内に走ったはずだった。
「……ちくしょう!!」
ナディーンの口から、普段は物静かで内気な彼女の唇には似つかわしくない痛罵が
小さく漏れ――そして、〈ピリカ〉の75ミリ砲が火を噴いた。
ガン!! 車体が特大の金槌で打たれたような砲撃の反動が走る。マーリアの視野
が発砲炎と砲煙で、一瞬盲しいたその瞬間――
あの小さな対戦車砲の影が、赤黒い爆炎に包まれて消えた。
「やった……!!」
ひどく遠くに聞こえる爆音の中、マーリアが声と息を絞り出した。
爆炎が消えると、誘爆した対戦車砲の砲弾が何かの花火のようにいくつか、弾ける
のが〈ピリカ〉の内部の目に、映った。
「よくやったわ、ナディーン。ナイナ、このまま10、後進して――」
マーリアが安堵の息を吐き、命じた。
「――…………」
だが――全員が、そろって暗い穴に落ちてしまったような沈黙が戦闘室に、満ちた。
「……ナイナ? ――ナイナ!? 負傷したの!? 返事を!!」
操縦席のナイナからは、応答がなかった。マーリアの背筋に、汚いものをぶっっか
けられたような悪寒が走った。小さく見えるナイナの背中は、丸くうずくまったまま、
微動だにしていなかった。
(……まずい……! さっきの被弾で――)
射貫はされていないはずだが、もしかしたら被弾の衝撃で剥がれ跳んだ部品や鉄片
で負傷したのか、あるいは衝撃で気を失ってしまったのか……
「ナイナ!!」
マーリアが叫んだ声に、ナイナは応答しなかった。恐怖と焦燥のあまり吐き気を覚
えたマーリアの耳に、追い打ちをかけるようなナディーンの声が突き刺さった。
「大尉!! 敵戦車!! 前方、2時! 1両…… 長砲身ソトカ……!!」
「……っ!! まずい…… ナイナ!!」
敵戦車が――新型のT34、強力な85ミリの砲塔を搭載したロシア戦車が現れて
いた。しかも…… 操縦手が動けない突撃砲の、射界外から――
ペリスコープから外を見たマーリアの目に、燃える対戦車砲の残滓に浮かび上がっ
た、白く塗装された醜悪な姿の敵戦車が映る。長い砲身を揺らし、砲塔を回転させな
がら――敵戦車は、まっすぐ進み、そしてまた砲身を揺らす。
「……あいつ、こっちに気付いてない……!」
ナディーンの呻くような声が車内に走った。その言葉の意味を、一瞬遅れて悟った
マーリアは震える声で命じた。
「ブレンダ、徹甲弾装填!! ナディーン、敵戦車、長砲身ソトカ、距離300!」
「は、はい!」
機銃をはね除け、起き上がったブレンダは棚から黒光りする弾頭の徹甲弾を出し、
大事そうに抱える。
「徹甲弾、残り一発です!」
その不吉な報告とともに、〈ピリカ〉の砲に徹甲弾が押し込まれ、閉鎖器が閉じる。
「装填よし!! ……くそっ!! ナイナ!! 死んじまったのかよ!?」
ブレンダが悲痛な声で叫んだ。
「静かに! 落ち着いて――ナディーン、あいつが射界に入ったら始末して」
ナディーンはそれに答えず、照準器に目を押し当て――距離ドラムを榴弾から徹甲
弾のものに調整し、ハンドルを回した。
砲煙と火災で汚れた漆黒の夜気の中、ゆっくり、〈ピリカ〉の砲が動く。
現れた敵戦車、長砲身T34は、ときおり停車し、砲塔を回しながら――〈ピリカ〉
を探して、闇に潜む突撃砲の前方へと進んでくる。向こうも、ハッチを開けて外を見
られないのはこちらと同じ――先に発見している〈ピリカ〉が有利なはずだが……
長砲身ソトカの85ミリ砲は、どんな距離からでも突撃砲の〈ピリカ〉の装甲など
板きれのように打ち抜いて粉々にしてしまう。見つかったら、それで終わりだった。
(……そのまま…… 来て、こっちに気付かないで……)
何も入っていない胃袋が、緊張のあまり喉までせり上がってきているようだった。
マーリアはペリスコープの防弾ガラスに目を貼り付けたまま、何か巨大な虫のような
敵戦車の姿を追う。 ……まだ、まだ射界に入らないのか……
マーリアがナディーンに口を開きかけたとき、
「捕まえた……! 照準よし、やります……!」
そのナディーンの声に、マーリアは渇きでへばり付いた口を動かす変わりに、砲手
の細い肩を小さく、叩いた。
同時に――砲撃した〈ピリカ〉の戦闘室が鋭く、揺れた。
(当たって……!!)
マーリアの視界は発砲炎のフラッシュに染まり、そしてすぐに暗闇と砲煙がそれに
変わって視野を遮る。その闇の中――〈ピリカ〉75ミリ砲から放たれた徹甲弾は、
青白い曳光の残像を一瞬、引いて走り――
「命中! ……しまった、転輪か……!!」
ナディーンの呻くような声が、戦闘室に走った。照準器の中、数百メートル離れた
敵戦車の影は、徹甲弾の直撃で揺れ、火花を散らしていたが…… 発砲と同時に旋回
していた長砲身ソトカは、側面を狙った砲弾でその大きな転輪をいくつか吹き飛ばさ
れただけだで生き残っていた。
ひどく巨大に見えるソトカの砲塔が、ゆっくりこちらを向いた。
殺り損ねた――〈ピリカ〉の内部に、苦い絶望と焦燥が満ちた。
「徹甲弾装填! 連続射撃!! 急いで、こちらも見つかったわ!」
マーリアが叫ぶ前に、ブレンダは徹甲弾を抱え、動いていた。
「徹甲弾、コイツで最後です……!!」
砲に徹甲弾を押し込んだブレンダが報告する。閉鎖器が閉じると同時に、
「照準よし! やります……!!」
ナディーンが小さく叫び、そして激発レバーを引き絞った。
ガイン!! ――鋭い衝撃と砲声を残して、最後の徹甲弾が放たれた。マーリアの
目が、ペリスコープの中に砲弾の飛翔を探したとき、
ぐらり、長砲身ソトカの砲塔と触覚じみた長砲身が、揺れた。
同時に、ガスバーナーの音のような爆音が遠く、響き――砲塔と車体の継ぎ目を射
抜かれた敵戦車は、己の内部から噴き出した炎で闇の中に浮かび上がった。
「やったか、ナディーン!?」
外をうかがうことの出来ないブレンダが、ナディーンの肩を掴んで言った。
「……うん、燃やしたよ。誰も脱出しなかった――」
ひどく疲れたような声で、照準器を覗いたままのナディーンが答えた。
「――ありがとう、ナディーン。助かったわ…… あとは……」
マーリアも疲れた声で言い、そしてまた、車内通話でナイナに呼びかける。
「ナイナ、ナイナ! お願い、返事をして、ナイナ!」
今は、際どいところで助かったが――このまま操縦できなければ、いつか〈ピリカ〉
はやられてしまう。しかも、狙撃兵だらけの闇の中に逃げ出すこともできない。
「……は、はい…… あいたたた……」
ヘッドホンから漏れてきた泣きそうな声に、全員が安堵の息を吐いた。
「大丈夫、ナイナ? 負傷したの!?」
「い、いえ…… さっきのでビックリして、おでこをぶつけちゃって……」
悪酔いから醒めたようなナイナの声に、マーリアがゆっくり、諭すように命じた。
「……あなたが無事でよかったわ。 ――この場で、10時方向に旋回して。もう砲
弾がないわ。もうここに居ても……」
その時だった。
カン! とひどく乾いて聞こえる、何かの音がマーリアたちの耳に飛び込んだ。
歩兵たちの撃っている流れ弾が車体の装甲に当たったのか――マーリアは、車体の
左側から聞こえてきたその音に向けた目を、またキューポラの外に戻す。
その時、また――
カン! と、同じ音が――同じ位置から、した。同じ位置に、小銃の流れ弾が当た
っていた。その音に、照準器から目を離したナディーンも顔を向けていた。
カン! 三度目、同じ音が、同じ間隔で――した。
(……――しまった!!)
戦闘室の中で、同じ「何か」に気付いたマーリアとナディーンが一瞬、目をあわせ
――そして次の瞬間には、マーリアは叫ぶような声で喉あてマイクに叫んでいた。
「ナイナ! 旋回やめ!! そのまま全速後進!! いそいで!!」
「え、え!? あの、大尉――」
「はやく!!」
乗員たちが聞いたことがないほどのマーリアの切羽詰まった声に、ナイナは反射的
に動いて、エンジンを吹かしギアをバックに入れた。鋼鉄の歯が砕けるような、ひど
い音と振動が〈ピリカ〉を揺らしたが……
「あ、あ…… ギアが入らない……!!」
咳き込むようなエンジン音と、変速装置が壊れてしまったかのような轟音にナイナ
の泣きそうな声が混じった。
血走ったようなマーリアの目は――〈ピリカ〉の左方向に、ペリスコープの防弾ガ
ラス越しに向けられたまままばたきもしていなかった
そこには、〈ピリカ〉最初に占位していた土手の谷間から、破壊されたラッチュ・
バムを踏みつぶすようにして、別の敵戦車が、長砲身ソトカがこちらに砲塔を向けて
接近してきていた。
さっきの、あの銃弾が教えてくれなかったら――
マーリアはがくがく震える顎でナイナに叫ぶ。
「早く!! ……一度、前進に入れてから、後進に!! はやく!!」
おそらく眼鏡の中の瞳を涙目にしながら、ナイナは無言で、変速装置を操作する。
咳き込むようなエンジンの咆哮に、鋼鉄のかみ合う音が混じり――
がくん!! と〈ピリカ〉は巨大な足で蹴飛ばされたように揺れ、履帯を軋ませて
後方に這い進んだ。それと同時に、
「きゃあああ!!」
着弾の衝撃が、〈ピリカ〉を揺さぶった。つい数秒前までピリカの居た位置に、凍
てついた泥道に敵戦車の放った85ミリ砲弾が着弾し、凍土を吹き飛ばしていた。
その衝撃と爆音に、またナイナの意識が飛びかける――だが次の瞬間、マーリアの
鞭のような言葉がナイナを、乗員全員のヘッドホンに走った。
「9時方向に左旋回! 敵戦車、長砲身ソトカ!! 突っ込んでくるわ!!」
その命令に、再びエンジンの咆哮と変速装置の鋼の悲鳴が応え、〈ピリカは〉ぐら
ぐら揺れながら、右の履帯だけを動かしてその場で信地旋回を行う。
そのあいだも――マーリアの目は、〈ピリカ〉にめがけて突進してくる敵戦車に向
けて見開かれていた。距離は200を切っていた。
しかも――長砲身ソトカは、二両――連れ立つ怪物のように巨大な砲塔を揺らして
〈ピリカ〉を狙っていた。突進している一両を、斜め後方でもう一両が援護するよう
に進んできていた。
(……さっき教えてくれたのは――イングリド、かしら…… よかった……)
不意に、そんなことをマーリアは考える。その彼女の耳に、
「射界に入りました……!」
ナイナの声が飛び込んで、マーリアをうなずかせた。
「――徹甲弾……」
言いかけて、マーリアはどす黒い絶望を飲み込み、言った。
「榴弾装填……! ナディーン、とにかく…… 撃って!!」
その命令に、ブレンダが泣き出しそうな顔で首を振り、そして榴弾を抱え上げてそ
れを砲の閉鎖器に押し込む。
「榴弾、残弾…… イチ……! 装填よし!!」
ガコン! と砲が榴弾を飲み込む。照準器に右目を貼り付けたナディーンの目に、
戦闘の長砲身ソトカが、車体をわずかに斜めにして停止し、砲塔をぐらりと揺らした
のが映った。ナディーンは照準ドラムを榴弾の目盛に戻し――ハンドルを回す。
「ナディーン! 撃って……!!」
榴弾では、戦車は破壊できない――しかも相手は新型…… 恐怖と絶望、それは自
棄じみた叫びをマーリアの口から絞り出させていた。
「――…………」
だが――ナディーンは、砲の操作ハンドルに手を掛けたまま――動かなかった。
「ナディーン!?」
「た、大尉! 後退しましょう……!」
ナイナが叫んだとき、全員のヘッドホンにナディーンの声が低く走る。
「動かないで……! 照準がずれる……」
「ナディーン!!」
誰かが叫んだ――ナイナと、マーリアと、そして照準器の中のナディーンの目が、
100メートル近い絶望的な近距離で〈ピリカ〉を狙っている敵戦車の姿に向けられ
ていた。凍り付く、瞳――いや……
凍り付いていたのは、マーリアとナイナの、二組の双眸だけだった。
「――…………」
ナディーンの瞳は、暗い照準レンズの世界の中で――こちらに砲口を向けようとし
ている敵戦車の、白く塗装された砲塔を、長い砲身をじっと見ていた。
破戒的な死を吐き出す、85ミリの砲身が――砲口が、〈ピリカ〉に狙いを定めた。
ナディーンの目に映った砲口が、ぴたりと――真円の黒い穴になる――
その瞬間、ナディーンの手は激発レバーを引き絞った。
「わあああ!!」
〈ピリカ〉砲撃の衝撃と爆音に、誰かが悲鳴を上げた。
そして、耳をつんざくような爆発音が〈ピリカ〉を揺さぶり、消えた。
「――な……」
砲煙と巻き上がった雪片で盲しいになりかけたマーリアの視野で、先頭のソトカが
爆発したのが見えた――いや…… ナディーンの放った榴弾が、長砲身ソトカの砲塔
に命中して、そこで炸裂していたのだ。
だが…… 75ミリ榴弾では、T34の砲塔装甲を破壊することは出来ない……
マーリアが後退を命じようとしたとき、
「次の砲弾を! はやく……!!」
ナディーンが照準器に目を押し当てたまま、叫んだ。
「……!? ブレンダ、次弾装填……!!」
マーリアは叫ぶように命じる。だが、防弾ガラス越しに外を見る彼女の目は、
(……え……?)
長砲身ソトカの動きが――止まっていた。こちらを照準しているはずの85ミリ砲
は火を噴かず、巨大な砲塔も幅の広い履帯も、死んでしまったかのように動かなかっ
た。死に見つめられ続ける、耐え難い沈黙が数秒、続いた。
「あ……! 逃げる……!」
ナイナの声に、マーリアはハッとして目を見開いた。停止していた敵戦車のハッチ
が開き、そこから真っ黒な人影がばらばらと地面にぼれ落ちるのが見えた。
それと同時に、歩兵たちが撃ちあう機銃の銃声が不規則にはじけた。
「あいつら、戦車を放棄したわ……」
ぼうっと言ったマーリアの声に、一瞬遅れて、ハッとした顔のブレンダが転がって
いたMG34機銃を抱え上げた。
「ちくしょう! 逃がすか――」
「ダメよ! 外に出ないで、狙撃されるわ……!!」
マーリアはキューポラから外を見たままブレンダを叱咤し、止めさせる。その彼女
の視野の中で、脱出した敵戦車兵たちは闇に消え――後方に残っていたソトカは、真
っ白と煤色の混じった排煙を盛大に吐き出して、ゆっくり後退しだした。
「……敵戦車、後退してます――」
息を吐くようなナディーンの声に、マーリアは自分の見ているものが幻ではないと
悟り――無意識のうちに、胸の前で十字を切っていた。
「くそ、徹甲弾があったら燃やしてやるのに。あれじゃまた回収されちゃうよ」
「ここじゃ、味方の回収部隊も来られませんよね。無傷のソトカ、もったいない……」
ブレンダとナイナの悔しそうな声に、マーリアは疲れたほほ笑みを浮かべる。
「向こうは、こっちが弾切れなのを知らないのね……」
「たぶん、後方のソトカはこっちの位置を見つけていなかったんです――やつらは車
間無線が出来ていなかったみたいですね……」
ひどく冷静に、何か謝るような声で言ったナディーンに、マーリアはしばらく少女
の短い後ろ髪を見つめてから、言った。
「ありがとう、ナディーン、またあなたに…… でも、どうしてあいつら……?」
その不安げな声に、ナディーンは照準に目を押し当てたまま応えた。
「さっき榴弾で、敵の砲の、照準孔のあたりに直撃させました。砲が故障したか、照
準がいかれたんで――逃げ出したんだと思います。突っ込まれてたら、終わりでした」
「そ、そう……」
事も無げに言った少女に、マーリアはそう答えることしかできなかった。
100メートル離れた、瓶の口ほどしかない標的を戦車砲で撃つ少女――
(……魔弾の射手…………)
マーリアは胸の中でその言葉をつぶやく。
古い伝説で――悪魔と契約し、百発百中の銃弾を手に入れた魔弾の射手は、その最
後の弾丸で自分の心臓を射抜いて、悪魔に魂を連れ去られるという…………
(……ナディーンも―― ……いえ、私たちも、いつかは、きっと…………)
マーリアは、その暗い考えをやめて、命じた。
「ナイナ、このまま20、後退して。そこで様子を見てから街道に出ましょう……」
「は、はい。 ……ああ、やっと帰れるんですね……」
「――後方に、だけどね…… たぶん〈ハンナ〉が交代を呼んでくれたはずよ。それ
より、戻ったすぐに整備しないと。変速装置に無理をさせたから、たぶん大ごとよ」
「……ああ、やっぱり……」
「でも、アレで壊れないなんて。やっぱりドイツの機械はすごいよね」
戦闘室の中で、少女たちの唇には似つかわしくない会話が短くかわされたあと――
PS223.1〈ピリカ〉は、ゆっくり、闇の中を後退していった。
*
仕上げは、突撃砲の装甲板にお湯で溶いた消石灰を塗りたくって、剥げかけていた
冬季迷彩を修復し――それはすぐに、カレリアに満ちた真冬の空気の中で凍り付く。
〈ピリカ〉の乗員たちは暗闇の中で、凍った泥の上に崩れ落ちるようにしゃがみ込
んだ。
「……あああ〜…… やっと、おわったあ……」
油で真っ黒になった手袋を見て、ナイナが泣きそうなため息をついた。
だが、すぐに立ち上がらなければならない。でないとズボンが凍ってそこから凍傷
になるかもしれない。ナイナとブレンダ、そしてナディーンは凍った石灰の入った缶
の回りで、足踏みをしながら身を寄せる。
ここ大隊本部で――といっても、ただ森の中の空き地に狩り小屋の脇に、地下壕と
整備区画を作っただけの場所だが――そこで整備兵や歩兵たちと一緒に、凍り付いた
〈ピリカ〉の装甲板をバーナーやガソリンの火であぶって、ボルトを抜き、ピンを叩
き、凍っていった履帯のあいだの泥や雪をこそぎ落として、何十キロもある履帯の鉄
板を外してまた組み、調整して――懐中電灯の明かりを頼りに巨大な変速装置の検査
と整備をして、それよりも重い鋼鉄の塊、主砲の整備と調整、砲の清掃をして。それ
が終わったら、主砲より大変なマイバッハエンジンの整備と、フィルターの洗浄――
その苦行の仕上げに、十数キロの重さがある戦車砲弾を三十発近く、一発ずつ抱え
て運び、狭い突撃砲に積み込んで格納し、それが済んだらドラム缶を転がして、手動
ポンプで燃料ガソリンを突撃砲のタンクに注いで…………
鋼の身体と意思を持った整備兵たちと一緒とはいえ、この小さな少女たちの身体の
どこにそんな力と根性があったのかと不思議になるほどの重労働だった。
彼女たち突撃砲乗りは、出撃のたびに、この苦行をこなしていた。
「……寒い…… 身体中、痛い…… ……眠い、お腹減った……」
「眠いけど、おなかがすいて眠れないんだよね……」
「……大尉は?」
火の入っていない缶を囲んで足踏みしている少女たちの中で、ブレンダが答える。
「大隊本部に行ってる。書類仕事が山ほどあるみたいだしね」
「……あの戦区は大丈夫かな…… 突撃砲の交代は入ったの?」
「私たちが粘ったおかげで、別の部隊が対戦車砲で陣地を作ったってさ」
「そう…… ああ、おなかすいたね……」
「何か食べ物は……? ていか、今何時だろうね…… おひる、それとも夕食?」
「むこうで炊さん車も凍り付いたよ。あったかいものは無いんじゃない?」
「そんなあ……」
見ているほうも聞いているほうも、泣きたくなる光景だった。
そこに――
「おや、これはお嬢さんがた――ははは、変わったダンスホールだな」
凍り付いた空気の中で、ピシッとした良く通る綺麗な声が響いた。
「あ、少尉……」
ナディーンたちの背後から、背の高い人影が歩いてきた。分厚い防寒服と毛皮に身
を包んだその姿は、戦車猟兵小隊〈ウル〉の指揮官、イングリド・カリマ少尉――
隻眼の、切れ長の目が細くなって笑う。女優のように背が高く美麗な顔立ちの女性
だったが、その隻眼と漂う雰囲気は、何か野生の牝狼か何かのようだった。ロシア軍
から鹵獲した短機関銃を肩から提げたままのイングリドは、大きな手でナディーンた
ちの肩を叩き、白い歯と盛大な白い息で、笑う。
「――無事で良かった。あんたたちが粘ってくれたおかげで、こっちも後退できたよ」
「い、いえ…… それより、あの時は危ないところを――ありがとうございます」
ナディーンの声に、イングリドは一時、なんだっけというような顔をしてから笑う。
「ああ。あれか――こっちは無線機も、パンツァーシュレックの砲弾もなかったから
ね。あれで気づいてくれてよかったよ。それより…… ほら――」
イングリドが顔を向けた方向に、汚れ、疲れ切った少女たちの顔も向く。
大隊本部になっている小屋のほうから、マーリア・コスキネン大尉と、彼女と同じ
ように薄汚れた防寒具で着ぶくれした小柄な姿が歩いてきていた。
「あ、大尉。こちらは終わりました――」
「ありがとう、みんな。ごくろうさま。ごめんなさい、あなたたちにだけ……」
「それより大尉、おなかすいた…… 今日の食事は……?」
「ああ、それなら……」
マーリアが汚れたままの顔でほほ笑むと、傍らにいた小柄な女性が――彼女たち突
撃砲中隊の指揮官の一人、P223.2〈ハンナ〉の車長、カレン・コスケライネン
中尉が抱きかかえていた大きな紙箱を揺すって言った。
「ほら、腹ぺこ坊主たち。上官の前では口を開く前に敬礼だぞ。教練のことも忘れた
ような洟垂れどもには神のご慈悲も無しだ」
「え、え……?」
ぎこちなく不揃いな敬礼をしたナディーン、ナイナたちの前でカレンは目深にかぶ
った帽子の下で、にやり笑った。
「なんだなんだ? 坊主どもは鉄檻の中にいすぎて、今日がなんなのかも忘れたか?」
カレンはの紙箱の中に手を入れ、そこから何かの紙包みを取り出した。
銀紙のこすれる小さな音と、その板きれのようなものに、〈ピリカ〉乗員たちの目
が真ん丸になった。凍り付いた空気の中に、独特の甘い香りがかすかに匂う。
「そんな不信心なやからが中隊にいるとは。元修道女のあたしの顔に泥を塗る気かい」
「――あ……」
ブレンダが惚けたような声を出したとき、その背後から、すっと緑の枝が伸びてき
た。切ってきたモミの木の枝を持ったイングリドが、眼を細くして言った。
「クリスマスおめでとう」
「あ、あ……!」
今度は、三人そろって惚けたような――そして顔がぱあっと輝くような声を出した。
「さあ、みんあ。お祈りをしてから…… これを頂きましょう」
「た、大尉……! ありがとう……!! 中尉も、カリマ少尉も……!!」
カレンは、どすんと紙箱を〈ピリカ〉の上に置いて歯を見せ笑った。
「これはあんたらの車の取り分だ。あたしらは別にあるから、遠慮無くニキビづらに
なるまで食いなよ。中に携帯コンロも入ってるし、あとで薬缶いっぱいお湯を持って
きてやるから――そんな汚いつらで主のご聖誕を祝ったりしたら容赦しないからね」
その言葉が待ちきれなかったように、ナイナとブレンダが突撃砲によじ登って紙箱
を開いた。そしてすぐ、泣きそうな歓声が広がった。
「すごい! アメリカのチョコレートだ!! 缶詰も英語だ!!」
「こ、これ…… どうしたんですか……? まさか本部からこっそり……」
「聞いたら味が変わるってのかい? ――ハハ、違うよ。このあいだ、イワンどもの
補給車をぶんどったときに少し分けてもらっておいたのさ」
ひどく楽しそうに言って、カレンはタバコに火を点け、盛大に煙と白息を吐いた。
「――そン中に酒も入ってるけど、あと八時間でまたあの忌まわしい死の影の谷に戻
るんだから、ほどほどにして早く寝ておきなよ」
蒸気機関車のようなカレンが行ってしまうと、イングリドも小さく笑って、小声で
何かをマーリアと話してから小屋のほうに歩いていった。
「さあ、みんな。〈ピリカ〉と一緒に、お祝いしましょうか」
マーリアのほほ笑みと声に、少女たちは戦闘時のような勢いで鋼鉄の車体によじの
ぼっていった。
*
携帯コンロであたためた、アメリカ産の肉と豆の缶詰は格別だった。脂のからんだ
トマトの味は忘れかけていた味覚を呼び覚ませてくれて、クラッカーの塩味ですら涙
がでそうなほどに美味しく感じられた。
少女たちは、平和な普段のくらしだったらどうかと思うような食べ方で缶詰をむさ
ぼり、いっしょにチョコレートを割って口に放り込み、ふくらんだ頬の内側にあめ玉
を入れて――味覚と食感と、嚥下する快感に浸った。
しばらくして、ようやく飲み物に手を付けられる落ち着きが出てくる。
「ふう……」
お湯でウイスキーを割って、そこにチョコレートを溶かした飲み物のカップを抱き
かかえるように持ちながら、少女たちはカップの湯気を鼻で吸い、で楽しんでいた。
少しのお湯で、凍傷にならないよう注意深く拭いた少女たちの顔にはまだ汚れが残
っていたが、その肌には生きている血の温かさがばら色になって浮かび上がっていた。
「ねえ、みんな――」
たわいない、小鳥のさえずりのような会話の中、不意にマーリアがつぶやいた。
「はい、大尉?」
「――この戦争は、もうすぐ終わるわ。だから……」
急だった指揮官の言葉に、少女たちは息を止めてその顔に見入った。
「……死なないで。生き残って。来年のクリスマスはみんな、家で…… もっと素敵
なクリスマスを、すてきなひとたちと迎えるのよ。 ……わかった?」
「あ、あの、大尉……?」
ブレンダが何か言いかけたが、それをさえぎるようにナイナが笑顔で言った。
「は、はい! ……本部で、何かいい情報でもあったんですか?」
「……ううん。そういうのじゃないけど…… でも、あなたたちは――」
マーリアは目をふせ――彼女の部下たちが、〈ピリカ〉の乗員たちが昔話していた
夢の話を、戦争が終わったあとの生活の「夢」を思い出していた。
ブレンダは、水泳選手になってオリンピックに出て――
ナイナは、実家の店の手伝いをしながら教師になるための勉強を――
ナディーンは―― ……彼女は、なんだっただろう…………? 聞いた覚えがあっ
たが、マーリアはそれに自信がなかった。
(――そういえば…… この子からは、聞いていなかった気がする……)
マーリアはカップの中を見つめているナディーンに言った。
「ナディーン、あなたは将来、何をしたいんでしたっけ……?」
「は、はい。えっと……? ――わたしは……」
ナディーンは、大きな瞳で暗い空を見上げる。
そこには――
渦を巻くような音を放ちながら、白い極光が空の裂け目のように輝いていた。
「……生き残ったら、考えます――」
その言葉に、全員がハッと息を飲み、ナディーンの顔を見つめた。
「……ごめんなさい。わたし、ばかだから…… あんまり先のこととか、考えられな
いんです。むかしのこと、あまり思い出せないですし……」
マーリアは自分のうかつさを胸の奥で恥じた。ナディーンは、三年前の戦争の時に
ヘルシンキで空爆にあい、家も家族もすべて失っていた――そのときに頭に重傷を受
けた彼女は、今でもときおり、その後遺症に苦しめられているというのに……
その時になってマーリアは、ナディーンが絵本を描きたいと言っていたのを思いだ
していた。そして――彼女自身が、そのことを思い出せていないことも。
「その…… ごめんね、ナディーン、その――」
「いえ、わたし、いまが――みんなと一緒にいられて、嬉しいから、いいんです」
「……ナディーン…………」
両手で持ったカップの中にささやくようにして、ナディーンが言った。
「だから、わたし――みんなが死なないように、頑張る。死んでも、みんなを――」
その言葉を、マーリアの伸ばした手が止めさせた。
「それは私の仕事よ。取らないでちょうだい、ナディーン」
その声と笑みが、少しして他のみんなにうつって、再び笑い声が広がる。
「私だって、まだ死ねないわ。娘が、ウィルヘルミナが大きく、幸せになるまで……」
「えー。大尉、それだけでいいんですかー?」
「な、なあに、ナイナ?」
「娘さんだけじゃなくってー、自分の幸せはいいんですかー?」
「わ、私は……」
「……それとも、まだ旦那さまを愛してらっしゃるんですか?」
「ん、うん…… そうよ、私はずっとあのひとの―― もうっ、やめてよね……!」
どんな夜よりも暗い、冬の極北の闇の中――小さな鋼鉄の戦闘車両の上で、小さな
灯りと、小さな少女たちの声が静かに、ろうそくの火のようにはためいていた。
この日があけたら――冬は、ゆっくりと短くなってゆく。
そして、いつか春が、夏が来る。
上空の白い極光が、夏のあいだから消えることのなかった奇妙な極光が低い轟きと
ともにゆれて、この世界を照らし出していた。
おしまい
◇メニューに戻る◇
|
|